日本の音楽展とは?

日本の音楽展30周年記念公演(XXX)プログラムより 2008年

日本の音楽展 歴程30年

音楽評論家 上野 晃

 遂に三十年の歴程を刻んだ〈日本の音楽展〉が、どのようなリライトを試みても、ここに反芻を記すのは難しい気がして来る。いまや遙かなる1988年、第10回を迎えたときの驚異も小さくなかった。強力なパトロンや有力な後援者がいたのでも、支援組織が構えていたのでもない。因って四、五回~まあ五年も続けば立派で、実績は消えずに残されるだろう、という観測だった。しかし、初回の一夜開催が、二年目は二夜、三年目には三夜、というように一日ずつ増していき、五年目からは五夜開催へと確実に成長。ここからが本格的な〈日本の音楽展〉の出航といえる。八年目には、九州編として福岡と筑後でも公演している。1980年代の私たちの音楽史の一部に印したこのオリジナルな演奏活動は、まさに一つの河流を成すように歴程を延ばし続けて行った。

 1979年に九人の演奏家たちでスタートした〈日本の音楽展〉は、ここが新作発表の場であるよりも、旧作や埋もれている作品に改めて聴衆ともどもその価値を問い直して向かう、というモラルが底流していた。作曲グループの作品展やそれ以上の大きい集団組織による作品披露の場が、いまや少なくない。近ごろでは、作曲家と演奏家の相互乗り入れ式の新作展、コラボレーションを唱える演奏リサイタルのタイアップ型、そして演奏家側に選択権のある現代コンサートもふえている。しかし、完全に演奏家側がイニシャティヴをとる日本作品展で、これが五日ないし六日間もかけてプログラムされるというプロジェクトは、当〈日本の音楽展〉の三十年のあいだに、他の例を少なくとも私は知らない。

 創始者で音楽監督の熊谷弘は、音楽大学作曲科の出身ながら、指揮者を目指して、まず目標を打楽器奏者として日本フィルハーモニー交響楽団に入り、オーケストラを体験した。しかし、並の打楽器奏者でないことは、かの1960年代に活動の現代音楽演奏集団〈ニューディレクション〉での彼のアクテュアルな活動が証明している。文字どおり新しい方向(ニューディレクション)を実際に経験した彼が、これに陶冶されながらも、また逆にはそれへの批判という、両様の効験から生まれたのが〈日本の音楽展〉であった。

 現代音楽の孤立やマイノリティからの脱却──日本の演奏家も聴衆も日本の音楽が一番よく解る筈だ──日本作品を積極的に評価しよう──日本の知られざる名曲にはこんなのもある──聴衆も演奏家も日本の曲をもっと愛し、慈しみ、私たちの音楽を持とう──つまり当世の私たちの本物の音楽文化を──というテーゼで貫かれて来た。これこそどこからも然したる援助を得ず、4半世紀を越えて一路、この音楽展の土台を営々と自ら築き上げた信条に等しいものというよりほかにない。

 最初期からずっと出演の続いている現代音楽のオーソリティたち、常連のエキスパート、新人の後輩連が、対等に同じステージでプログラムをこなしていく。こうした交歓交流が、この音楽展を一つのプロフェッショナルなコミュニティに生成し、伝承と蓄積が認められるようになり、次第に定着する聴衆とともに、いまや日本音楽村の観を呈している。ここには、作曲家のエゴが幅を利かせているような光景は、一切見られない。ゆえにまた、先年からの新作公募は、演奏家と聴衆とからの強い希求を表しているように思われる。



「日本の音楽」はどこで聞けるか?(作品・演奏・聴衆)

作曲家 末吉保雄

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 熊谷弘と出会ったのは、1960年代の始めだったと思う。たぶんNHKのスタジオ(現在の場所ではなく、内幸町)で、教育番組の録音だったはずだ。当時は、映画、レコード、放送のあちこちで用いられる音楽は、多くが、いわゆるクラシック系の音楽家たちによって、そのつど新しく作曲、演奏され、録音したものだった。おかげで、私など、まだ「駆け出し」始めてさえいなかった若造まで注文を受け、音楽家たちはたいそう忙しかった。この頃、熊谷はすでに一頭地を抜いた存在で、難しい仕事ほど頼りにされ傑出した力を発揮していた。以来、大いに啓発され続け、今日に至っている。

 熊谷弘の主宰する日本の音楽展が、1979年1月29日、その第1回(1夜のみ)を青山タワーホール(地下鉄外苑前、建物は現存、ホールは廃業)に開催したとき、30年後こうなることを想像出来た人がいただろうか。長期の継続を疑った人たちがいたことは間違いない。しかし翌年は2夜公演、第3年は3夜、4年目は4夜、第5回にあたる1983年には、とうとう5夜にわたる音楽祭に成長を続け、早くも毎年1月半ばすぎ恒例の音楽行事として、地位を確実にしたのだった(ちなみに、私じしんは初めて、この年の第5夜に、自作「中也の3つの詩」の指揮者として出演した)。

 1986年には、5回(この年から今回まで、ずっと草月ホール)に加え、熊谷の生まれた福岡県でも2回公演した(これは、今年2月3日に開催予定の筑後特別公演に至るまで、東京外に開催した唯一の例外)。そして1988年に第10回を記念した。プログラムに9人の作曲家(伊福部昭、戸田邦雄、小倉朗、石桁真礼生、別宮貞雄、広瀬量平、三善晃、一柳慧、末吉保雄)が祝辞を寄せた。

 当時私は、日本の音楽展は、主宰する指揮者熊谷の「演奏」だ、と痛感していた。指揮者が、指揮から離れてプロデューサーという異なった仕事をしているのではない。ステージに現れなくとも、各年の全夜、そして10年のシリーズは、演奏家熊谷の音楽表現、つまり彼が演奏しようと考えている音楽の実現だと思った。そして、この音楽展が、「いわゆる現代音楽の分野にとどまらず(熊谷)」、まさに「日本の音楽展」としての多面的な広がりを形成することによって、特色と存在意義を確固としたことに、感動をおぼえた。

 これは、日本の歌曲など声楽、ソロとアンサンブルの器楽、両分野の音楽をもって1演奏会を編成する、このシンプルな原則からもたらされる。この原則の採用は、今、あたりまえ、と多くの方々がお考えかもしれない。しかし30年前、瀧廉太郎に始まる日本歌曲は、現代音楽家の多くからは「退嬰的」で、そこから離反すべきと受け取られていたし、「現代音楽は喉を壊す」と嫌った声楽家も少なくなかった。指揮者熊谷は、それを論説で云々するのでなく、日本の幅広い聴衆・音楽家・音楽作品の集まる場を設け、その場に音楽を響かせ、共有することができると考えた。



 音楽は、演奏する人がいて、その演奏を人が聞きとどけるときに成立する。異論も有るだろうが、私はそう思う。

 演奏者は人に聞いてもらうために弾く。演奏には準備が不可欠で(即興演奏といっても、何もかも即製では出来ない)、演奏する人は、まず声や楽器など、音を発する手段を、その目的に適うように駆使できなければならない。古今東西の音楽は、演奏者の長期の修練(準備)と併行する。

 作曲家は、演奏家に作品を提供する。それは演奏の準備を依頼する様式であり、手順であって、聞く人たちのために演奏が実現して、漸く、作曲の最小限の目的は果たされる。

 孤独に作曲し、あるいは練習しているだけでは、それを人にどう届けられるかを考えぬことには、準備は整わず、演奏は聞き届けられるに至らない。

 1998年、「日本の音楽展」は第20回を記念した。プログラムに作曲家たちが祝辞を贈った(伊福部昭、戸田邦雄、石井歓、別宮貞雄、大中恩、松村禎三、本間雅夫、廣瀬量平、三善晃、一柳慧、金光威和雄、佐藤敏直、増本伎共子、末吉保雄、石原忠興、野田暉行、坂幸也、柳田孝義、菅野由弘、以上生年順19人)。

 [演奏家、聴衆、日本の音楽諸作品、それぞれが、仲介者を必要としている。上手に、相手に出会わせて欲しい]。当時、ここに私が記した拙文の一部である。日本には、彼ら、これらに用意された場は少ない。有るとしても限定的で、開かれた入り口は見あたらない。

 熊谷は、その日本に、「日本の音楽」の場を設営し、日本の音楽を永続的に響かせている。[熊谷氏は、希少な人である。それを20年も続けて、今、多くの人が、多くを感謝していることを記しておく]。こう書いてから、また10年経って、今を向かえている。



 第30回の今年(演奏会は20回以来、年6夜開催される)、各夜の曲目編成はあい変わらず前記原則を堅持している。変化は1点、第20回を記念して創設された「日本の音楽展作曲賞」(公募・選考)、その入選・賞作品(今年は最終夜に第11回授賞式、第4夜に、前年第10回入選作品の初演が行われる)。これで、山田耕筰から新作を初演する新人世代までの広がりが実現する。

 熊谷と、シド音楽企画、彼らを支えてくださった方々に、心から、有難う、ご苦労様、おめでとうと申し上げる。



日本の音楽展ⅩⅩⅩⅢ

音楽ジャーナリスト 小倉多美子


 難局をどう、好転させるかの展望を説く記事がほとんどの年始だった。“スゴイ日本”を本気で見直す警鐘を響かせながら、しかし、希望を見出すパースペクティヴを照らし出す特集に溢れていた。

 バブル崩壊以降の20年、名目経済成長率(*1)は、年平均0.5%。世界の水準と比べるとどのぐらいなのだろう。2000年以降リーマン・ショック前の2008年までだけに絞ると、OECD(*2)先進国の平均5.8%に比較し――この期間日本は年平均0.2%――深刻な低さ。話題の膨大な個人金融資産(家計金融資産)1400兆円だが、(増え続けている)日本の国家の借金(国債及び借入金並びに政府保証債務)約1000兆円や地方自治体の借金総額・約200兆円(特別会計の約34兆円弱も含む)をすっきりなくし(つまり引き算し)、これからの国債(2011年度の新規国債発行額は44兆円)で割れば、約5年でなくなってしまうという試算もある。国際競争力(国・地域の経済的競争力)は、「世界経済フォーラム」(*2)によれば第6位だが、IMD(*3)によれば2010年度日本は第27位――因みに第1位はシンガポール、第2位は香港、昨年まで第1位を誇ってきたアメリカ第3位、中国本土は第18位〔昨年度は第20位〕、韓国は第23位〔昨年度第27位〕で日本を追い越している――。頼みの教育だが、前述のOECDが2000年から3年毎に行っている学習到達度調査(*4)では、スタートした2000年に数学第1位、科学第2位、2003年科学第1位だったものが、2006年には数学第10位、科学第5位に。直近の2009年(65の国・地域参加)には、メイン項目の読解力では、それまでベスト10圏外であったものが第8位にランクインしているが、数学は第10位、科学第5位。読解力・数学・科学全項目で第1位を得たのは、メインランド・チャイナから参加した上海だった。因みにメインテーマの読解力において、韓国は第2位、香港は第4位。2006年までトップにいた教育大国フィンランドをしのぐ成績で、他国が落ちたというよりも、力を注いでいる勢いと言えるかもしれない。

 日本の強みは、他国が羨む先進的技術だったが、生産拠点の移動や提携で徐々に流出し、集中的とも言える大会社化した製品の国を挙げてのセールスも手伝い、グリーン成長戦略を官民一体で推進する韓国や、中国の大量生産品の後塵を拝することのある現実も報道されている昨今。ラオス――今はまだGDP世界第136位だが、日系企業がアジアで最大の集積をしてきたタイとベトナムの隣の国として展開の視野に入ってくる――が、中国の地上デジタル放送の方式に中国のDTMB方式(*6)を選択した一事も、国際標準を獲得し貿易力の地図を着々と塗り替えて行く隣国の戦略を思い知るばかりだろう。貿易黒字をはじき出してきた貿易立国日本が、貿易収支が減少する現実が、やってきている。

 すでに2005年、経常収支のなかの所得収支(*7)が、貿易収支を上回った。2010年上半期は、所得収支は5兆6830億円、一方、貿易収支は4兆747億円。リーマン・ショック後に落ち込んでいた自動車輸出が回復したのを主な要因に、前年同期2兆5110億円に比べて62.3%増)なのに、である。新興国との競争は激化するし、円高。様々な要因から生産拠点を国外に据えるなか、5年で、貿易赤字が膨らみ所得収支の黒字では埋められず経常収支が赤字に転落すると予測する専門家もいる。個人金融資産1400兆円を展望した期間も5年だった……。

 経常赤字回避に、多方面で発揚されてきたのが、匠の技と国内産業のさらなる高度化である。製品を高度化する設備投資につぎ込む原資には、企業の国外での収入の還元、また、昨今各メディアが盛んに取り上げる“内部留保金”も、多くのトップが設備投資に回す(既に回している)意向を示していて、心強い展望が仄見える。

上記のように競争激化のなか国外で作ることは避けられなくても、創るのは国内である日本。高度な創造を、シリアス・ミュージックの分野でも既に獲得していることは、国際的活躍の場と評価を得ている多くの音楽家がその証左だろう。ベルリン・フィルの第1コンサートマスターに樫本大進が2010年12月正式就任、国際コンクールにおいても、昨年11月にはジュネーヴ国際音楽コンクール ピアノ部門で萩原麻未が優勝(ピアノ部門は過去8年間優勝者なし)、同じく昨年のアルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで三橋敬子が準優勝、18歳でロン・ティボーvn.部門に準優勝した成田達輝、記憶に新しい09年のヴァン・クライバーン優勝の辻井伸行やブザンソン優勝の山田和樹etc.、これ以上の言は俟たないだろう。

 作品においても、西洋音楽を公に輸入してから百数十年、膨大な試みのなかで、再演を繰り返す名作が多数蓄積されている。日本音楽コンクールのピアノ及び声楽部門の課題曲に日本の作品が入っているとはいえ、リサイタルのプログラムに恒常的に組み入れられてとは、まだまだ言えないであろう。その詩の背後の世界まで研鑚し尽くして演奏されるシューベルトのリートに較べても、例えば、百人一首の世界を描いた中田喜直の歌曲は、風景に託された普遍的心情を日本の風景に呼応する味わい深い響きにのせ、滋味深い。これら日本の宝庫を、逸早く、広く共有することを目指したのが、熊谷弘主宰の〈日本の音楽展〉だった。

 熊谷氏の手法は、徹底した〈演奏家による選択〉。市場原理主義にも似たこの手法がもたらすものの1つは、演奏家の自由な選曲の往来であり、1つはやはり、魅力ある作品の集積だと言えよう。演奏家たちの選曲の活発さは、例えば、第31、32回に参加しているピアノの小山佳美さんの曲目を見ると、野平一郎《響きの歩み》(2000)、西村朗《星の鏡》(92)、中村弥生《Memory》(06)、土田英介《ピアノのための波動》(02~03)。長年参加している小成亜紀子さん(p.)の選曲は、手元にあるプロから引いただけでも、櫻井ゆかり(58年生)《つかのまの伝言》(81)〔03年第25回〕向井耕平(66年生)《五つの前奏曲》(04、初演)他〔06年第28回〕、間宮芳生《ピアノ・ソナタ第1番》(55)〔07年第29回〕、松村禎三《ギリシャによせる二つの子守歌》(69)《巡礼》(99)〔09年第31回〕、西村朗《オバール~光のソナタ》(88)と、世代も作風も様々。熊谷氏は、参加者の求めに応じて作曲家への橋渡しもするので、演奏家にとっては納得できる形で披露できる研鑚の場ともなっている。

主宰者が選曲に意志を介在させないだけに、〈日本の音楽展〉は従って、日本人作品の大いなるデータベースとしても機能するシリーズと言えよう。「この作品って、どんな感じ?」という時の検索に、毎年のステージを、課金システムを導入しても、閲覧させてもらいたいほどである。

創る国を映し出す鏡を、これほど磨き続けてきたシリーズは他に例を見ない。


*1)名目経済成長率:国内で生産された製品・サービスを時価で 示した名目国内総生産(名目GDP)の伸び率

*2)OECD:Organisation for Economic Co-operation and Developmen経済協力開発機構:現在33か国が加盟。1948年発足時は第2次世界大戦後のヨーロッパ経済復興を図るため欧州16か国で設立されたが、現在は新興国も加盟し、原子力や環境問題まで、経済成長・途上国の経済的拡大・貿易の国際経済問題を広く協議する機構として機能している。

*3)世界経済機構(World Economic Forum):売上高が50億ドル超のグローバル企業約1000社を会員にもつNPO。1971年設立。年1回、各国元首も参加し世界の難問を議題に行われるダボス(スイス)での総会が有名。

*4)IMD:International Institute for Management Development 国際経営開発研究所:ジュネーヴに1990年設立された調査研究機関でビジネススクール。各国の国際競争力順位は、同機関が毎年発行している『世界競争力年鑑』に掲載されている。

*5)学習到達度調査(PISA= Programme for International Student Assessment): 15歳3か月から16歳2か月、つまり義務教育終了時の生徒を対象に行った筆記試験を1年かけて分析。 科目は、読解力、数学的リテラシー〔*5〕、問題解決能力。毎回主要テーマが設けられ、2000年を先頭に読解力→数学的リテラシー→科学的リテラシーと巡っていき、前回の2009年は読解力がメイン、次回の2012年は数学的リテラシー(予定)となる。

*6)リテラシー:元々は、読み書きの できること(識字)を指した。そこから、与えられた情報から必要な材料を引き出して活用する能力を言うようになった。応用力。よく使われる「情報リテラシー」は従って、情報機器を駆使して得た情報のなかから必要な情報を抽出し活用する能力を言う。

*7)これまで国際標準には、日本=ISDB-T、アメリカ=ATSC、ヨーロッパ=DVB-T方式があったが、新たに中国のDTMB方式が加わることになる。日本はODAで1993年にラオス国営テレビのスタジオを造っているだけに、悲しいものがある。

*8)外国との間で行う、モノの取引の収支尻を貿易収支、サービスの収支尻をサービス収支、海外の株式や債券等からの収益・また海外拠点のもうけから日本に還流した配当等による所得収支、これらの合計が経常収支となる。


(2011年1月)



とうの昔にポスト・グローバル

音楽ジャーナリスト 小倉多美子


 経済的グローバリゼーションの対極にあるものとして、比較的手つかずに置かれてきた〈地方(ローカル)〉と〈文化〉。文化の方はさらに——特に日本では寄附税制の問題もあり——お金を生むどころかお金がかかり、加えて票にもつながらないものとして、つねに苦境が好況を上回ってきた。

 それなら、疲弊の一途を辿っているのかというと、グローバリゼーションと文化、そして文化を支える状況は、とても大きな曲がり角にさしかかっているのではないかと思う。


■グローバル化さえ消化する力


 1つは、グローバリゼーションをも消化し、オリジナリティ溢れるモノを生み出す強靭な創造力である。料理が、輸入された国の人々に合わせてアレンジされ馴染んでいくプロセスを、私たちは何か国もの料理で体験している。そしていま、欧米からの一般旅行者だけではなくファッション関係者にも刺激を与え、熱い眼差しを注がれている領域が出現している。パリやミラノなどコレクション先進地の街角を歩いても、渋谷・表参道を行く若い女の子たちの重ね着テクニック、“盛り方”のカワイラシサ・繊細さ・組み合わせのセンスに勝る軍団にお目にかかることはまずないと言っても過言ではないだろう。洋服文化を輸出した欧米人が逆に、渋谷の女の子たちの着こなしを「カワイイ」と称賛する現象が起きている。洋服文化を輸入して約140年、世界を席巻する西洋文明の1つを、いわば“本家”を凌ぐ、いや、全く新しいディメンジョンへと到達させるクリエイティヴな力が日本にはあるという証左だと言えよう。グローバル化の波が押し寄せても、日本の文化土壌という胃袋は、時間がかかってもそれらを消化し、いつかは独自性を輝かせる強靭さを備えている強烈な現実を、いま、日々の街角で目にし、そしてそれは、現代の日本の作品にも響いている。

 日本人が西洋音楽において自主的創造への意欲を発露させたのは、実は受容の黎明期、明治33年の瀧廉太郎(1879-1903)の或る「緒言」に読み取ることができる。瀧は文部省から留学を発令された2人目の留学生(専攻に作曲が加えられた留学生としては初)であり、発令されたのは1900年6月だったが、実際にベルリンへと旅立ったのは翌年4月。途に着くまでの約1年間に瀧は、後世に名を留める作品を多数ものした。その1つが、自ら出版(共益商社書店)にまでこぎつけた《組歌「四季」》であり、その緒言には早や近代の作曲家誕生の息吹が漲っている。歌詞と編成を異にしながら四季それぞれを刻むこの連作の緒言で瀧は、


 近来音楽は、著しき進歩、発達をなし、歌曲の作世に顕はれたるもの少しとせず。是等多くは…、皆西洋の歌曲を採り、之が歌詞に代ふるに我歌詞を以てし、単に字句の数を割當るに止まるが故に、多くは原曲の妙味を害ふに至る。(中略)常に此事を遺憾とするが故に、これ迄研究せし結果、即我歌詞に基きて作曲したるものゝ内二三を公にし、此道に資する所あらんとす。(後略)

 明治三十三年八月 瀧廉太郎


と宣言している。西洋から借りてきた旋律に「我歌詞」つまり日本語の歌詞を単に割り振っただけの学校唱歌の在り方に異を唱え、母国語に即した歌曲創造への意欲を漲らせているのである——この受容黎明期に、まだ二十歳そこそこの青年が。明治政府が文部省内に「音楽取調掛」を設置し伝習生を受け入れ西洋音楽の教育を開始した1880(明治13)年から130年、瀧廉太郎の衣鉢を継ぐ俊作創造に切れ目なき歴史を、日本の音楽界は紡いできた。戦時中も、である(とりわけ第2次世界大戦中は、国威発揚のため日本人作曲家作品厚遇が国家的施策として打ち出され、定期公演に日本の作品を加えたオケもあった)。

 瀧の次世代には山田耕筰という大山脈が出現し、北原白秋の口語体の自由詩等とのコラボレーションから、いまも全く色褪せることのない日本独自の歌曲を1920年代に生み出している。その1歳年下には信時潔が、その一回り下の1900年生まれ世代には独自の和声観を築いた清瀬保二や、大正から昭和初期の都市のモダンさと日本の民謡の感覚を融合させ「新民謡」というジャンルを登場させた橋本国彦、1930年代には日本の西洋音楽創作に1つの確固たる方向性を打ち出し「チェレプニン賞」を獲得した伊福部昭が、ほぼ同年代にはウイーンで学びベルリン・フィル等の指揮台にも立ち新交響楽団(現・N響)の発展に尽力を惜しまなかった尾高尚忠etc.を輩出。その元からは、清瀬に学んだ武満徹や、1920年代生まれの中田喜直、矢代秋雄、別宮貞雄ら、1930年代生まれの三善晃、佐藤敏直、八村義夫ら巨星を生んでいる。作曲家には枚に暇がないため、主に今回演奏曲目に上がっている作曲家を挙げさせていただいているが、その後は、今や日本を代表する作曲家として活躍する1950年代生まれの西村朗や吉松隆が独自の響きの世界を、そして新進の中村弥生作品、沖縄出身の瑞慶覧尚子作品等、いまに生きる作曲家たちの内奥や感覚を託された作品を加えながら、「日本の音楽展」は年々、進展を重ねている。

 この長いプロセスを、そして多彩な感覚を、毎年俯瞰できる音楽展がどこにあろうか。世界を席巻する西洋文明から音楽を取り入れて130年。いわば“世界規格”の音楽を消化し、独自に結実させた表現の多面体を、1人のリサイタルで展示するのはほぼ不可能だろう。さまざまな奏者が、その感覚で素直に掬い取り、聴き手が感銘を受け、さらに再演に繋がってこそ、創造と再創造(演奏・受容)の真の循環となろう。選曲に一切口を挟まず、何日もかけ、多くの演奏家に日本の作品を演奏する機会を供する〈日本の音楽展〉のプロデューサー・熊谷弘は、いわば財産を培う土壌の最良の耕やし手であろう。そこにはグローバリゼーションさえ消化し時間がかかっても独自の表現へと到達する、まさに強靭なオリジナリティへの志向性が脈打っていると言えよう。熊谷弘のあの力まぬ佇まい——力で押しても決してひるまぬ柳のような強さが、そのまま表れているのかもしれない。


■力強い羅針盤として


 大きな曲がり角として感じるいま1つが、社会全体のメセナ活動に対する感覚の変化である。文化を支援する精神が日本になかったわけではないことぐらい、周知のことだ。古くは貴族、江戸の大旦那やなにわの商人(あきんど)の心意気、武家の教養……。しかし、海外進出する日本企業が、国際的に認められる必須条件の1つとして認識を新たにしたのが、法人格を持つ会社組織としての社会貢献であり、いわば外圧に近い形で貢献対象を設えていった企業も多かったことは否めないだろう。「メセナ」と称し、評価の定まった対象(名画・一流演奏家や団体)につぎ込まれた大金を惜しんでも惜しみきれない。バブルが崩壊し、それら形骸的メセナも泡と消えた一方、「地域メセナ」という形で企業は地域に根差す活動を模索し始め、マネジメントに関しても代理店にマルナゲのケースも激減した。いまや、(社)企業メセナ協議会が毎年顕彰する「メセナアワード」の2009をみても、文化庁長官賞を含め、147件の応募のなかから選ばれた7賞のうち4つは、山形、多摩川、天神橋、京阪電鉄・なにわ橋駅、と、地域と共生するメセナ活動である。同協議会の2008年度のメセナ調査結果でも、「メセナ活動で重視した点は?」という問いに「地域文化の振興」が62.7%で最多。「メセナ活動を通じて企業が得たこと」のトップに「社員が自社に誇りを持つようになった」28.9%という回答が、4年前と比較して10ポイントも上昇している。生活に、そして企業風土のなかにメセナの定着を感じさせる結果に、まだ全部とは言えないまでも、真のメセナへの方向性を読み取る方は少なくないと思う。

 世間が追いついてきた、という文言があるが、やっと世間の文化への感覚が〈熊谷弘〉に追いつき始めてきたと言えようか。日本の作品の独自の質を信じ、1979年から長きにわたって〈日本の音楽展〉を継続してきた精神は、文化育成の羅針盤として、ひとときもぶれずに音楽界を支える一つの極となってきた。その逞しさに、日本の底力が透けて見えてくる。

(2010年1月)



31回──淡々と豊かな土壌を耕して

音楽ジャーナリスト 小倉多美子


■名曲を残していく理想の形


 ネット社会、すなわち氾濫するほどの情報社会のなかで、非常に情報の行き交う密度の薄い部分が、実は自国〈日本〉の同時代音楽作品と享受する人びととを繋ぐ場面や媒体だろう。その責任を、媒体各社にのみ負わせるべき、また負わせられないものだということは、理解の範囲内だろう。未来の遺産となっていく、しかし多種多様で、まだ「とき」に揉まれていない作品の楽譜出版や録音が、かなりの部分、市場原理の外での営みになるからだ。しかも、作品の質が必ずしも知名度と比例していないのは、衆目の一致するところだろう。明治13(1880)年に文部省内に「音楽取調掛」が設置され──当初の目的が音楽教育の面でも西洋化を図るために急務であったその教材や教員の養成が第一義であったとしても──幸田延ほかの伝習生を輩出し、その後あまたの作曲家を生み出してきた日本作曲界にあって、媒体に乗る作曲家や作品は一握りでしかないと言わざるをえない。視野にあるのは氷山の一角。見えざる部分に埋もれている珠玉の財産の大きさは想像を絶しよう。

 日本の歴史的財産となる作品を世に送り出す装置はしかし全くない(なかった)わけではなく、作曲家たちによるグループ展や日本現代音楽協会による音楽展、サントリー「作曲家の個展」等々、作曲家側や演奏団体から発信する活動や意義ある社会貢献活動など、実は多くの発信源はある。しかし、他の分野──たとえば海外でウケたMANGAやそのテイストをもつ現代の美術作品──と比べ、現代日本の感覚を帯びるシリアス・ミュージックの分野の作品が人口に膾炙しているかというと、否定的にならざるを得ない。聴き手たちとの間に横たわる溝を埋めようとする努力は、古今東西、いまに始まったことではない。名だたる作曲家たちも、意図するところはまちまちだが、その茨の道に力を割いている。ヒンデミットの「音楽共同体Gemeinschaft fur Musik」やツェムリンスキーやシェーンベルクの「私的演奏協会」など、すぐに思い浮かぶものもあろう。ヒンデミットの場合には、自らの新音楽をその運動と融合させていったが、シェーンベルクは自作も含め自分たちが共鳴する音楽への理解を深めるために、シンパシーを抱く聴衆を囲い込み、演奏家には丹念なリハーサルを求めと、ある意味、作品のほうに聴衆を引き寄せるエリート的志向の強いものだったと言えよう。

 主宰者・熊谷弘氏は、情報密度の極めて薄い日本の音楽作品の状態を、どのような手立てで変えようとしているのだろうか。

 「日本の音楽展」では、主宰者であり、全てを取り仕切る音楽監督・熊谷氏は、これまで参加した延べ約1200人の演奏家に一度も作品を「推した」ことはなく、ここで演奏される作品は全て、演奏家たちが自ら選んだものばかりだ。「演奏家が選び、それを聴いたお客さまが再び聴きたいと思い、また、ほかの演奏家がその曲を弾いてみたいと思い、そうやってたとえば100年演奏が重ねられ聴き続けられていけば、名曲として残っていくわけで、それは西洋の歴史を見てもよくおわかりのことだと思います。時には、今年生誕200年を迎えたメンデルスゾーンのように反ユダヤ主義のなかでその真価が歪められてしまったり、またナチス・ドイツの政権下で退廃音楽家というレッテルを貼られ上演禁止になりそのまま歴史の闇に葬られてしまったりと、政治的意図などが真の受容を阻む場合もありますが、本来は、演奏家と聴き手の心底からの取捨選択が、作品の順当な堆積の方法だと思います」。自然の摂理にも似た方針の実行には、「見守る」という、実は極限的な忍耐力と、その方針を絶対に貫こうとする強靭この上ない意志が横たわっている。なのだが、熊谷氏を知る人なら誰もが知っていよう、まったく気負った様子のない柔らかな風情を。

 それは「懐が深い」という言葉で片付けるべきではないと私は思っている。もっとベーシックな、熊谷氏が摂理として持っているもので、それは熊谷氏が作曲家だからなのではないだろうか。聴衆が、また演奏家が選んだのだという作品にとっての理想を、摩耗することなく胸に抱いたオーガナイザーなのだと思う。


■30年のあいだに


 「日本の音楽展」は、1979年1月、いまはなくなってしまった青山タワーホールで第1回を開催した。1日公演で、出演演奏家は7人だった。

 そもそも熊谷氏が楽壇に登場したのは、それを遡ること22年前、打楽器奏者として日本フィルハーモニー交響楽団に入団したとき。そして1962年、史上に名を残すエキスパート集団「ニューディレクション」のメンバーとして活動を開始する。「ニューディレクション」は、基本的には演奏家から成るが、高橋悠治や一柳慧も加わっており、内外の同時代作品をまさにテンポラリーに伝えたホットな集団だった。60年代は邦楽器ブームあり、ケージ・ショックありと、同時代の音楽の動向が熱気をもって伝えられ、また人びとから熱い視線を浴びていた時代。熊谷氏が作曲家として産声を上げた時期は、こと音楽に限らず、青年たちが熱い魂で以って未来の形成に眼差しを向けていた時代だった。

 1970年代には、音楽祭など現代の音楽を展開してきたさまざまなシーンの集大成とも言える大阪万博を経て、1950年代生まれ、言わば戦後第2世代の活動が顕著になる。1970年代はしかし、欧米自体が(1つの強力な方針をもはや持てないという意味で)多様化し、日本においては、あれほど熱気帯びていたグループでの作品発表が、社会自体が‘60年代’の熱を失うことと並行するように、前衛の閉塞感や社会にアピールする限界が見られるようになってくる。暗い転換に思えるかもしれないがしかし、地方からの発信も活発になり、また、海外で日本作品が取り上げられる機会が目立ち始め、また、1974年という年は数々の現代の音楽祭──〈Music Today〉〈アジア作曲家会議〉〈軽井沢アート・フェスティヴァル〉etc.──が2回目を迎えるなど、1970年代半ばには新たな動向が定着方向を示し始めてもいる。いわば全世界で巻き起こった熱旋風の冷めた後、冷静な眼差しで同時代作品と社会との関連に取り組み始めた時代とも言えようか。やがて1980年代初めにはポスト・アヴァンギャルド、ポスト・モダンの議論が沸き始める頃となる。そのような時期に、「日本の音楽展」は船出したわけである。

 1日公演でスタートした「日本の音楽展」はその後、第2回(1980)には2夜、第3回(1981)には3夜公演となり、第4回(1982)には4夜、第5回(1983)には5夜へ、第20回(1998)には6夜公演に拡がり、現在も6夜で続けられている。

 1988年には、「日本の音楽展」の功績が認められ、第6回中島健蔵音楽賞優秀賞を受賞した。

 1997年には20周年を記念して「日本の音楽展・作曲賞」を設け、今回で第12回を迎えた。


■作曲家とともにできる最創造

 あくまで‘自然の摂理’を守る熊谷氏だが、1つだけ、積極的に行っていることがある。

 演奏家と作曲家との橋渡しだ。

 「もしもベートーヴェンが生きていたら」聞きたいことも聞けたのに……という悩みを解消できる可能性こそ、同時代作品の特権なのだ。これを積極的に利用しない手はないのだが、“突然のお電話”をできる演奏家ばかりではない。その媒介役を惜しみなく買って出てくれるのがオーガナイザー・熊谷氏で、この音楽展の大いなる魅力の1つだ。多くの演奏家が「日本の音楽展」に参加することによって、作曲家との出会いの道を拓いてきた。

 31回を迎え、新たなディメンジョンにさしかかったのでは? と熊谷氏に質問してみた。「淡々と続いていってくれれば良いのです。日本の作品が“普通の”作品になるまで」。

 どれほど実現する時間がかかろうとも、「自国の作品が特殊視されなくなれば」という夢にブレはなく、かつ、聴き手・演奏家の心からの選択という理想の方法で実現しようとする正攻法にも、変わりはない。


(2009年1月)



〈日本の音楽展〉について

音楽ジャーナリスト 小倉多美子

■前衛がまだ息づく時代に

 同時代の日本の作品がプログラムにのることが特殊視されない空気が、やっと満ち始めた昨今。そこには、モダニズムを展開した世紀がもはや前世紀となったこと、西洋一辺倒とも言えた音楽の授業に日本の伝統音楽が組み込まれるようになったこと、前衛の終焉とともに調性や旋律性など感覚的に受け入れやすい作品が回帰してきたこと等々、いくつかもの要因が重層的に織り成していよう。本当は最も皮膚感覚で解るはずの距離にある同時代の、そして同じ国の空気を吸った作品がしかし、一般の人々にとっては超マニアックに映り、またいわゆるクラシックの演奏家にとっても「意識をもってとりくむべき」だった時代に、〈日本の音楽展〉はスタートした。そして、事は、実はもっと複雑だった。

 熊谷弘氏が〈日本の音楽展〉を開始したのは、1979年の1月。1976年にチャールズ・ジェンクスの著『ポストモダンの建築』(第1版)でポストモダンという語(と傾向)が明確に市民権を得、モダニティ自体への懐疑、そして社会全体を牽引するような「大きな物語」の終焉が到来を告げようとしていた時期だったが、聴衆と作品のインターフェイスであるコンサートには──世界的に見ても──「前衛」の余韻が色濃く残されていたと言わねばならないだろう。つまり、モダニズムの所産として生み出された作品と一般の聴衆との間の溝を。そして、シェーンベルクが「私的演奏家協会」を設定しなければならなかった時代と抵抗の激しさ等の皮相的な違いはあるにせよ、一般聴衆からの「関係なさ」「無関心さ」という点では同質のものを引き継ぐなかで、いまだ、片や前衛的作品を演奏する「スペシャリスト」的な存在と彼らの演奏するコンサートと、片やそれらの作品とはほぼ無縁な「一般的な」聴衆とが、かなりの距離感をもって分離していた時代だったと言えよう。熊谷弘氏は言う。「まだまだ『前衛』という空気が満ちていた時代で、伝統的な作品と20世紀以降の作品がバランス良く自然な形でプログラミングされるようになってきた現在とは異なり、同時代作品への取り組み方は非常に偏っていたと言わざるを得ないでしょう。そしてさらに、取り組む人々にも脚光を浴びる演奏家の一団──つまりスター的な現代音楽演奏のスペシャリストたち──があり、スター演奏家たちに取り上げられない作品、または脚光を浴びない演奏家たちからの発信は、置き去りにされる傾向があったことは否めないでしょう」。

 そのなかで、テーマ作曲家を決めるでもなく、スター・スペシャリストを立てるでもなく、一般の演奏家が過去・現在を問わず自由に日本の作品のなかから選曲するというシステムで始めたのが〈日本の音楽展〉。「『スター』や時代の先端を行く『テーマ』とは異なる角度で光を当てたところにも、素晴らしい作品は山と在るのです」と語る熊谷弘氏の根底にあるのは、一般聴衆による日本の同時代作品の真の受容と、歴史のなかに横たわる数々の日本の宝を次世代に活気をもって伝えたいという願いへの、確固とした理念である。

 真の受容を培うには、一般の演奏家の『好み』という照射角度が、徹底的に貫かれることになる。「その頃の、いわゆる『現代音楽』のコンサートが掲げていたテーマ性や新作委嘱初演ではありませんでしたので、『これは現代音楽の音楽会ではありません』と宣言した途端に、某新聞の事前告知に載らなくなりました」と熊谷氏は飄々と笑うが、真の受容と日本の宝を想う純粋な動機は、スタート当初の時代のなかでは、〈どちら〉からも特殊なものだったのかもしれない。


■実は数多の一般潜在層を掘り起こすことに

 しかし、一般からの反応が瞬く間に変化していったことは、実績が物語っている。第1回1979年は1夜、翌年の第2回は早くも2夜に、第3回は3夜へと参加者の膨らみつれて毎年開催日を増やし、第20回1998年から6夜に。5年目に5夜になったときには、音楽評論の重鎮・宮澤縦一氏からお正月早々電話を頂戴し「これだけあるといろいろなことが言えますね」と、プログラムの多彩さとそれを十分に発揮できる規模を称えられたそうだ。

 〈乖離〉していたはずの同時代作品演奏会の規模が、すぐに膨らんだとは、いったいどうしてなのだろう? 一人で一晩、全部を同時代作品のみでプログラミングできないが(選曲への自信、特別感etc.から)同時代の作品をやってみようという、または演奏してみたい作品があるという一般的な演奏家が実は数多(あまた)居たという証左なのだろう。つまり、日本の同時代作品に興味を抱く潜在層である。それを、見事に掘り起こしたのが〈日本の音楽展〉だったと言えよう。「一般の社会と同時代作品をどうつなげていくかが、私の大命題です。それは、社会全体の宝として、日本の同時代作品を共有することです。良い曲だなーと思う作品を探し、みんなに聴いてもらい、何度もその曲を演奏していく──ギャラのためでも売名のためでもなく、演奏家が心底から感銘した作品を人々と共有していくという極く基本的な形を、日本の同時代作品受容の確かな足腰づくりにも、極く当たり前に適応できたらと思っているのです」。


■真の受容を築く姿勢

 真の受容を築くその姿勢は徹底している。音楽展では1997年から〈日本の音楽展・作曲賞〉を開始した。作曲賞の場合、翌年か直後に受賞作が演奏されるケースが多いが、〈日本の音楽展〉では、入賞作の演奏義務を設けず、翌年の音楽展で入賞作が演奏されない場合もある。主催した作曲賞であろうとも、演奏家の自主的選択の尊重を重んじる。熊谷弘氏自身「もっとディレクターの色を出してみたら」と言われることもあるが、発足当初こそアドヴァイス的なことをすることもあったが、20数年にわたる〈日本の音楽展〉において、選曲のサジェスチョンは一切行っていない。あくまで、演奏家が発信するという、真の受容を求める原理に揺らぎはない。


■本質的に多彩な日本のシリアス・ミュージックの魅力

 それだけに当然、プログラムは多彩そのもの。たとえば今年の第5夜。中山晋平の《カチューシャの唄》もあれば、日本音楽コンクールなど多数のコンクール受賞歴をもち〈日本の音楽展・作曲賞〉も受賞している信長貴富の初演作が、いっしょに盛り込まれている。併せて、黛敏郎の《木琴小協奏曲》や武満徹のギターのための《森のなかで》、團伊玖磨、高田三郎の歌曲等も聴けるという多様さだ。「プログラムの多彩さをみなさん喜んでくださいますが、西洋音楽の技法を揺りかごにして生まれた日本のシリアス・ミュージックは、本質的に多彩さを纏っているのです。いわゆる“本家”のものが、その地の文化と混ざり合って新たなテイストを生み出す経験は、たとえば料理においては日常茶飯事で経験なさっていることでしょう。新しい地平を切り拓く大きな原動力の1つ、文化の混合──それもかなりドラスティックな混合を──日本の音楽界は身を以て体験してきました。その果実はとても魅力的です」と、熊谷弘氏も佳品の宝庫=日本の作品の魅力を語っている。

「ロックのドラマーがジャズのリズムを聴いて『新しいですねぇ』と感銘を新たにしたという話を聞いたことがありますが、ひところ『古い』と感じた作品が今、新鮮な感覚で受け入れられている傾向を最近見ます。時代の感性なのか、または、時間のなかで淘汰され本当の意味で作品が定着してきたのか。時代の感覚と作品の受容と、双方の傾向が皮膚感覚で得られます!」。音楽展は時代を映す鏡でもある。


■「生きた」指導を仰げる場

ここはどう演奏すればいいのだろう。迷ったその時、ベートーヴェンが生きていてくれたなら……。

熊谷弘氏唯一のサジェスチョンが「作曲家の所に行って聞いてください」ということ。作曲家への連絡をつけてあげることも多いそうだ。「たいていの作曲家は温かく協力してくださいます。自分の好きな曲を、作曲家に適切なアドヴァイスを受けて演奏し、みなさんに聴いていただく。とても理想的な形での演奏機会を提供できると自負していますし、作曲家のサジェスチョンを次代にも伝えていただけたらと思います」。


■出版を望む多くの声―楽譜受容に感じる真の受容

 ここのところある傾向が顕著になってきたそうだ。「〈日本の音楽展〉で聴いた作品を演奏したい。どこで楽譜が手に入るのか」という、聴衆や、また、〈日本の音楽展〉で他の参加者の演奏を聴いたプレイヤーからの問い合わせが多数あるとのこと。

 〈日本の音楽展〉というのは、同時代作品の思わぬバロメータとなっているのだと思う。熊谷弘氏というディレクターはいるものの、彼は決して作品を押し付ける人ではなく、また、演奏家たちは「個展」によくある「委嘱してしまったから演奏しなければならない」という束縛も受けず、ただただ純粋に「この素敵な曲を演奏したい!」という“自由”に恵まれている。この音楽展に乗った作品を見れば(また主催のシド音楽企画が行っているアンケートも貴重なデータになろう)、時代の感覚が望むもの、演奏家が真に共感し得る佳品が、浮かび上がってくる。出版事業自体かなりの経営努力を求められ、タイトな取捨選択を求められる現在、真の“需要”を見出せる鉱脈が、ここにはある。

 スター演奏家ではないが、実は音楽界を形成する最多層の演奏家たちの生々しい声、意欲──まさに再創造最前線の息吹と楽しさが、日数も増えに増えた〈日本の音楽展〉には満ちている。時代の需要に応える出版、そして、出版譜でさらに演奏の裾野が拡がり、日本の作品が皮膚感覚で歴史に刻まれていく、という良循環を生むマグマが沸々と、〈日本の音楽展〉には横たわっている。

(2008年1月)


 

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